君が好きと言いたい。

好きな人の好きな人が私で、お互いにそんな風に思えたらどんな時が流れるのだろう・・・

って思ってた私が今思うのは、

好きな人の好きな人は私じゃなくてもいいけど、私はあなたが好き!!!みたいな?

結局愛されたいより愛したい?っていうか、確認の必要もないくらいに自然体!でいたい。恋愛は結果じゃないんだ!!!

 

好きな人と、自分の理想形のような一日を過ごしてしまって、未だにあれは幻だったんじゃないかなと思っている。

できなかったことが出来るようになった時の喜びや驚き、ではなくて、

出来ると思ってもみなかった事が(少なくとも現時点で)急に出来ちゃった驚きみたいな、喜びの波は後から後からどんどんどんどん来ちゃう感じ。

数十年生きているとこんな感情になったりもするのかーって思い、幸せにまどろんだ。

かなり素敵。

好きな人との約束の数日前には、このままじゃきっと何も晴れないって思っていた現状が、実態としては何が晴れたのかさっぱりわからんが、眩すぎて尊すぎて、何も見えない!!(やっぱり晴れてないのでは?)

2018年9月27日に人生でベストスリーに入るであろう瞬間最大幸福指数を観測したことを此処に記す。

最高も最低も超えていこう!!!

 

後半に進むにつれ速度を増す。

”結果的に”そうなる”運命”だったと、容易にそれで終われないような話をされたところで、私にはそれをなんと言う?

自分のことばに置き換える術を持っていなかった。

運命に任せたいことだとか、運命を信じてやまない繰り返される思いの反芻とか、運命を必然だと言い換えるまでに至る過程とかを全て信じていたのだけど、運命も必然でも言い尽くせない。。。感覚を憶えた。

 

序文を最初と最後の2回読んで、

直接的な共感をあまり性急に求めすぎると、肩透かしを食らうかもしれない。

の一文に救われるのであった。

 

何のために生きているのだろうと、何度も何度も自問自答し、時には近しい人にその意味を押し付けるかのように迫り、答えを求め、見つからない出口終わりを求めてその場から一歩も動こうとしなかった私は、第三者(その人が言ったことだったらなんでも納得したのかもしれないような)に「意味なんてないという意味があるんだ」と宥められて納得に至った。

当時は、そうゆう曖昧さにハッとするくらいに何も知らなかっただけかもしれない。

だけどやっぱり、私が求めている(答えのような)ものは時間とともに変わっていき、個である私は自分で答えを出さないといけなかった。

そしてまた、自分の人生は自分しか生きられないから、幸せになるために生きているのだ。と自分の人生に意味付けをしないと生きられなくなっていた。

 

人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?

 

気づかない。気づかないうちに過ぎ去ったいろんな事に決着をつけながら生きている。

繊細すぎるが故に不意に・・・なんてことがたくさんあるのだと立ち止まらされた。

立ち止れるくらいの余白があれば、もしかしたら少し先の景色が変わるかもしれないと思った。現時点では気づかないし、振り返っても気づくことは難しいのだけれど確実にきっかけとなった過去が未来にもある。

現在を生きながらに過去を思い出しては忘れずにいた事が、少し隣で未来永劫平行線で終わってしまうことだって出来た直線を確実に震わせて、その振動が、今度こそ、例えばあの池の辺りで、会えますようにと願った二人を引き合わせることになるくらいに素敵なことが人生では起こりうるのだと証明してくれた気分になった。

 

こんな滅多なこと!起こりうるはずない!と一蹴する気にはなれなかったし、そんなはっきりとした直線を私は持ち合わせていない。

自分の持つその不安定さが生むぐらぐらとしたアソビが自分の人生に良くも悪くも効いているんじゃないかと心の底に秘めているので、この「マチネの終わりに」を読んで、登場人物をあくまで客観的に捉えながらも肩透かしを喰らわずに、言葉にならない感情であるが、今思うとおりにつらつらと書く事を思うに至った。

天神の書店に入店した時点で、マチネの終わりにを手に取る予定ではなかった私は、平積みされたその書棚の前を目線だけをそちらに残したまま通り過ぎる人生ではなく、イエローとブルーの表紙のそれを手に取りレジに進む事になる人生を迎えたことに幸せを感じる休日を過ごしている。

 

 

マチネの終わりに

マチネの終わりに

 

 

社会にいる刃

今日も私は、正しい街に住んでいる。

 

会社で、ある人が言った。

「あの人に何を言っても何も響かないので、自分に何も返ってこない、だから言わない」って。

久々にこういう姿勢の人を目の当たりにして、「ここにもいた」って思っちゃった。

言っている事に関しては別に「そうなんだ~」としか思わなかったけど、なぜか、

「こういう事を言っちゃう人、ここにもいた、ぎょぎょ」みたいになってしまった。

たぶん、当人のいないところでさんざん文句を言った上で(周りの人はそれを必然的に聞かされて)発散が終わったところで、

「よし言わない!(そのほうが相手に損失を与える!!)」

という文脈に私はぎょぎょっとしてしまうんだと思う。

別に、勝手にそうしていれば良いし、自分が相手から受け取ったものを0だと思うならば、0で返せばいいだけの話を、マイナス10で返そう!!みたいな意気込みを見せられたりしたら、え?ってなっちゃう。

 

そうやって、次から次にマイナスが生み出されて、社会にはたくさんの刃がある気がする。いくら危険な目に遭わないように気をつけて生きていても、刃物を突き立てられて透すチャンスを与えられない。

結局massでなければ、筋力か何かをつけて強靭にしていないと生き残れない。

繊細さはいつだって弱みになってしまう。

自業自得?強くなれ?お前が悪い?

聞き飽きたよ。

自分の事を信じている。【1周年やったあ!】

24時間のうち、1秒でも魔法にかけられる瞬間があったなら、にじゅうマルをあげたい。

 

今日も私は正しい街に住んでいる。

 

夏が終わり始めてる事を肌に感じて、日が暮れた頃にベランダから見る景色は、まだ数える程しか見たことがない景色だ。

最近はずっと、現状の景色を見るための心の隙間がなくて、どうしようもなくなっていた。ただただ消費するだけの毎日を送るのなら、何のための毎日なのかなって思っていて、それでも今はそうやって消費する期間なのだと言われても、そんな期間はほんと無理逃げたいって思ってた。

でも、客観的な意見っていうのは、やっぱり濁りが少ないから、闇を抜けるための明度は必要だし、客観的視点の存在はかけがえのないものなのだなと思った。2ヶ月くらいかかった。

住宅街と整骨院と歯医者と川とコンビニの立ち並ぶこの街のこの部屋から見える景色は、有限だけど(無限とか永遠とか、ないんだなーって思うとつくづく儚いなぁと思うんだけど)・・・・・・

ーなんでこんなにも毎回部屋から見える景色について書いているのだろうと、急に虚しくなってきました。ー

21時を過ぎているのに、空が明るいのは街灯や少し離れたとこのお店とか、マンションの光とかで、星が見えないや。

あの先に見えるタワーの周辺は、タワーのライトアップとか、周辺の高級マンションのあかりで明るいなぁ。

あんな所に住みたいなぁ~~って思うところを眺めながらいる、いつだって。

手が届きそうなわけでもないのに、見えちゃうからいつかあそこらへんに住んでいるんじゃないかなぁ~って本気で思ってしまう。お金の問題じゃないとしても、たぶんずっと私はこっち側を選ぶ人生なんだろうなぁ~。

手が届きそうなわけでもないのに、出会っちゃったから、街で一目見た彼の事をいつか結ばれることもあるんじゃないかなぁ~って本気で思ってしまう。見た目の問題じゃないとしても、このままだと一生好きな人の人生に登場できない気がするから、それだけはどうしても避ける道を選べる人生であるように、迷う隙すら与えずに、好きすぎるからできないとか言わない約束をしたい。

 

今日は、【俯瞰・不感・不完(etc)の森】をはじめて1年が経った日でした。

私は森の中で迷って彷徨って何も抜け出せないでいるのだけど、ここには好きがつまっているからもっとずっと好きでいられたらその時は空から一億の星が降るのだと思う。

私にも、みんなにも、失ったものや手放したものがあると思うけれど、

そして無限や永遠はなかなか見つけられないけれど、

そういうすべてを忘れることの出来ない自分を見失わない限りは、きっとなくさないよねって思うよ。

 

BGM by.Plenty- in silence ♪✩

in silence

in silence

  • plenty
  • ロック
  • ¥250

初めて舞城王太郎に触れる。の巻

愛は祈りだ。僕は祈る。僕の好きな人たちに皆そろって幸せになってほしい。好き好き大好き超愛してる。よりー

 

好きな人には幸せになって欲しい。

好きな人の好きな人が私で、お互いにそんな風に思えたらどんな時が流れるのだろうって思う。

ついつい。

めちゃめちゃに恋愛小説。。ってのを読みたいなって気分だった。

前の夜にそんな事を思っていたりもしたのだけど、

本を物色している時にはそんなことは忘れていて、長井短さんが、ブックオフに行ったら、ま行のとこ行って、舞城王太郎さんの本の並びを見るってブログかなにかに書いてたから、舞城王太郎さんの事が気になって気になって状態になって私はま行に向かった。

そして好き好き~を手にとったのは、恋愛小説脳が発揮されたのでしょうね。心のタイミングで足が動いている。

 

誰かを愛したって、失うことがそれなりに用意されていて、それならいらないと思うんだけど、誰かに愛されたいと思った時にそのリスクを持ちながらも乗り越えなければいけないんだ。

誰だって愛されたいじゃん。私の住んでるこの”正しい街”の景色をキミと見たいなって思うようになった。

今日は、ベランダから見えるタワーの点灯がちょうど灯った瞬間を見た。私が「あっ」って思うことをキミにも新鮮な状態で共有してもらえたら、あたしはそれだけで此処にいることを感じられるのになって思うから、キミに出会いたいと思う。

そしてお互いにゴールとか目指さなくても、現実から目を背けまくっても、失うこととか忘れるくらい現在(いま)を過ごせるなら私史上最高なんだけどなって思う。

 

柿緒と何かを比べて迷いたくなんてなかったし「比べられない」とか言いたくなかった。

 

そんな風に誰かを愛して、日々の一瞬一瞬がすべてがかけがえのないものであることにも気づいていて、

ほんとになんてこれは、<<<<Love Love Love You I Love You>>>>だ!

 

好き好き大好き超愛してる。 (講談社文庫)

好き好き大好き超愛してる。 (講談社文庫)

 

 

ステンドグラスを手放し手に入れたのは霞がかかるタワーの景色でした、きれいですね。

失ったことを忘れることがある。
今まであった空間を失って、これから過ごすはずだった瞬間を捉えることができなくなったことを憎んだことすら。
身近な人を亡くし、失くした分だけ、手に入れようと沸々としていたはずだったのに。

残ったものは、消費するだけの日常だったなんてことを一瞬たりとも尊ぶことなんてできますでしょうか。

 

あの人が見れなかった景色を見ることが出来るのは。
あの人が手にすることがなかったものを当たり前のように使うのは。
期間限定のお菓子は。
健康に考慮したホンモノのようなニセモノは。
出会ったかもしれない人との時間は。
心に秘めてた願望や欲望は。

 

止めないことで、忘れないことで、わからないけどわかろうともがくことで、ぜんぶ。ぜんぶ。

悔しさを原動力にして日々を摘みたいなんて、安易なことを書き残すことだけで1秒後に変化が起こるなら、何秒経ったはずの結果がこれでしょうか。


あたしが手にしている景色を横で見てもらうことができないので、
本当は大切な人には横に居てもらわないといやなんですけどね、私は、、

 

なんでもいい、いやまじで(大嘘)

ー今日はカットとカラーですね。どんな風にしますか?

「えっと、何も決めてなくて、特にこれってのはないんですけど・・・」

ーそうなんですね~長さは短くしますか?

「あ、長さは肩につくかつかないかくらいキープしていって、ボブを辞めたいんですよね。」

ーそうですね、そうしましょう!(雑誌ぱらりと)こんな感じとか?

「う~ん。こっちの方が!」

ーじゃあ(雑誌ぱらぱら)これとかこれですかね?

「いや、これはあまり好きじゃないんで、こんな感じですね」

・・・じゅうぶんに自分のご希望のスタイリングがありましたね。

脳内で平面にも立体にもなってなくて、言語化する気もさらさら持たずとも、意思決定は自分でするんです。美容師さんの華麗なアシストにうまく乗って、自分の希望を達成することができたわけです。ありがとう。

 

【なんでもいい(けど)なんでもよくない】

 

カレーが食べたいな、(少し歩くし、並ぶけど)スリランカカレーが。

青が好き、(だけど)今日の空の色じゃない。

誰か隣にいて欲しいな、いや、緑のコートの彼じゃなきゃだめなんだ。

 

全然、全然、なんでもよくない。

自分の人生をmakeできるのは自分だけだから、主導権を誰かに渡すことはできないから、全てを自分で決めて間違ってもしっかりと方向確認をしていく。

全然、なんでもよくないんだな。

何が欲しいのかわからない、なんていうのは本当に無責任で怠惰だと思う。

だけど、簡単になんでもいいって言っちゃうことがたくさんある。

なんでもいい、いつでもいい、誰でもいい、なんてのは手に入らない可能性を遠ざけるかのような後進的な決定だと思う。

欲しいものを欲しいって言える素直さが欲しい。

話したい時に気軽に連絡したい。好きな人には好きだと伝える術が欲しい。

 

全部簡単じゃないけど、大切にしたい。(けど)