後半に進むにつれ速度を増す。

”結果的に”そうなる”運命”だったと、容易にそれで終われないような話をされたところで、私にはそれをなんと言う?

自分のことばに置き換える術を持っていなかった。

運命に任せたいことだとか、運命を信じてやまない繰り返される思いの反芻とか、運命を必然だと言い換えるまでに至る過程とかを全て信じていたのだけど、運命も必然でも言い尽くせない。。。感覚を憶えた。

 

序文を最初と最後の2回読んで、

直接的な共感をあまり性急に求めすぎると、肩透かしを食らうかもしれない。

の一文に救われるのであった。

 

何のために生きているのだろうと、何度も何度も自問自答し、時には近しい人にその意味を押し付けるかのように迫り、答えを求め、見つからない出口終わりを求めてその場から一歩も動こうとしなかった私は、第三者(その人が言ったことだったらなんでも納得したのかもしれないような)に「意味なんてないという意味があるんだ」と宥められて納得に至った。

当時は、そうゆう曖昧さにハッとするくらいに何も知らなかっただけかもしれない。

だけどやっぱり、私が求めている(答えのような)ものは時間とともに変わっていき、個である私は自分で答えを出さないといけなかった。

そしてまた、自分の人生は自分しか生きられないから、幸せになるために生きているのだ。と自分の人生に意味付けをしないと生きられなくなっていた。

 

人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?

 

気づかない。気づかないうちに過ぎ去ったいろんな事に決着をつけながら生きている。

繊細すぎるが故に不意に・・・なんてことがたくさんあるのだと立ち止まらされた。

立ち止れるくらいの余白があれば、もしかしたら少し先の景色が変わるかもしれないと思った。現時点では気づかないし、振り返っても気づくことは難しいのだけれど確実にきっかけとなった過去が未来にもある。

現在を生きながらに過去を思い出しては忘れずにいた事が、少し隣で未来永劫平行線で終わってしまうことだって出来た直線を確実に震わせて、その振動が、今度こそ、例えばあの池の辺りで、会えますようにと願った二人を引き合わせることになるくらいに素敵なことが人生では起こりうるのだと証明してくれた気分になった。

 

こんな滅多なこと!起こりうるはずない!と一蹴する気にはなれなかったし、そんなはっきりとした直線を私は持ち合わせていない。

自分の持つその不安定さが生むぐらぐらとしたアソビが自分の人生に良くも悪くも効いているんじゃないかと心の底に秘めているので、この「マチネの終わりに」を読んで、登場人物をあくまで客観的に捉えながらも肩透かしを喰らわずに、言葉にならない感情であるが、今思うとおりにつらつらと書く事を思うに至った。

天神の書店に入店した時点で、マチネの終わりにを手に取る予定ではなかった私は、平積みされたその書棚の前を目線だけをそちらに残したまま通り過ぎる人生ではなく、イエローとブルーの表紙のそれを手に取りレジに進む事になる人生を迎えたことに幸せを感じる休日を過ごしている。

 

 

マチネの終わりに

マチネの終わりに