夜明けに立ち会う202のベランダ
夜と朝の間が好き。
朝日が昇る時の空のグラデーションを見ていると、色と色の間の色が見える。
切り離しようのない切れ目をもっと深く覗き込んでみると、もっとたくさんの色が見えてくる。
まだ目に見えてるその1つの星は、次に顔を上げた時には見えなくなってしまっているかもしれない。
消えてしまったわけではないのに、感じることが出来ないという体験が、よりリアルなんだと思う。
信じたくないことを、突きつけられるのは寂しさがあるけど、誠実だと思う。
本当のことだけを知りたいけど、できれば傷つきたくないっていうのは難しい。
同じ景色を見ていたい人と必ず隣にいれるわけじゃないのに、ーこれからもずっとー
同じ景色を見てるかもって思えるだけで、幸せで仕方ない。
濃いあおと薄いあおの間に、またあおがあって、
おれんじはあおと混ざり合ってく気もするけど、既にももいろな気もする。
星の輝きに目がついていかなくなって、
雲の影が見えるようになったから、大きく見えるようになって、
一目惚れした彼に今度はいつ会えるのかなって考えながら、
不可能が可能になるとー明日がまた来るとー思っている今この瞬間を切り抜きたい。
もっと交差して、また会いたい。
セルフプロデュース力∞
生活の中でセルフプロデュース力なるものに必要性が生じている。
不得意なことに焦点がいかないように、得意なことを最大限に見てもらう。
結局は事実より、見せ方の力みたいなので世界が変わることがあると思う。
他人と接する時点で発生する消費活動の中で、自分のすべてをみてもらうことは不可能だし、多くの人が自分以外の人の本質にたどり着くには、限られた人生の中では時間が足りなすぎる。
だいたい、死んだあとに気づかれることとかたくさんあるし、気づかれぬまま消費もされぬまま大気中に混ざってなかったことになっていることになっていることの方が多いと思う。
そういうのはもったいないけど、結局そんなの自分で何とかするしかないって気づかないといけない。
見て欲しいことはセルフプロデュースして、見せ方とか需要とかタイミングとか方法とかを考えて見てもらうしかない。(見てもらうチャンスが存在するという事実)
よっぽどの需要がある場合を除いて、そうして”ここにいるよ”って言わないと完全に無にされてしまう。
見て欲しくないことを見せない方法もあるわけだから、突破口を見つけてうまくやることができるはず。これはなんか未来が明るい気がしてくるじゃない?
世の中をざっと見渡してみたときに、自分がすごいなーって思う人が何人かいたとして、その人が全てにおいて完璧だと思ってすごいなーって感じるわけじゃないと思うし、
だからこそのより光る魅力だったりする。
雰囲気イケメンっていう存在はまさにそれで、容姿のパーツが突出して優れている(優れているの基準は謎。でもおそらくの一定基準がある)わけではなくても、自分の見せ方を適切に自己認知することで、焦点を移動させてオーラを完全に、ただならぬ”自分だけの”魅力に変えている。
この、”自分だけの”っていう唯一無二感が、いわゆるイケメンの世間の定めた基準(謎)でのパーツの優れている点を超えてしまう。
私は、自分が好きになるものに対して、なんで好きなんだろう感が常にあるから、
ざっと目に見えていないとこ、感知できていないとこを見ようとするし、知れば知るほど確信に近づく。やっぱり違ったと気づくこともできる、一石二鳥。
需要を生むためには自分の今持っている武器を最大限に使うし・か・な・いのだと毎日のように思い悩んでいるし、武器の使い方がわからなすぎて日々負けていることが多い。
けついひょうめい20161127
変えたい。
もっとシンプルに言葉にして、
もっと素のままの素材を体外に出すようにする。
考えるのは部屋でひとりですればいい。
人ともっと向き合うために、人と対している時は考える。
他人と自分をはっきり区別して、
こう言ったらこう伝わってこんな風に思われるだろうという決めつけをやめよう。
違うと思えば訂正することばを考えればいい。
誤解されたら訂正すればいい。
誤解されないだろうと思って出した言葉が誤解されてきたし、
込み入った言葉は相手に入るわけがないといい加減に
変えたい。
決めよう。もう、自分のことばに責任を持つ意味でも
シンプルな思考とシンプルなことばで相手に伝えると。
さいしょは努力しよう。きっとそれがなんちゃらなくなるんだろ?
土曜日の夜
雨の日は、空に重たさが必要以上にある。
雲が一面に広がる空には、空間が見当たらなくって、グレーでもない、何とも言えない、今日は黄土色。グラデーションすらないから重い。
影がないし、風がなくて、動きもない。たぶんないとこだけに視点をおきがちになる気分にさせるのも雨のせい。
窓の外には、向かいのマンションのステンドガラスが見えて、その景色がこの部屋からの一興であるのに、空がそんな調子なので気分もノリません。
晴れた日は、上空を頻繁に飛行機が飛んでいる。ライトが光っていて動いている。
飛行機に初めて乗ったのが、小6の時で、それまで空に光るライトは飛行機だと言われてもさっぱり意味がわからなかった。
私の知っている飛行機は、新幹線に羽が生えたような大きな乗り物なのに、今見えているライトがちかちかして実体の見えないあれに人がたくさん乗っているなんて、意味がわからなかった。
かなり高いところを飛んでいるんだね。
最近、この部屋から引っ越したいとすごく思っている。
半年以上前に、音楽の趣味のかなりいい感じの下の部屋の人が引っ越して(おそらく水漏れで)、3週間くらい前に、隣の部屋の人が引っ越して(おそらく子供が産まれて)、私も引っ越したくなった。
部屋に不満はほぼない。ベランダに出れば、空港が近いこともあって、だいたい飛行機の飛んでるのをぼーっと眺める一興があるし、ステンドグラスは好きだし、少し遠目には開発地のタワーマンションがあって、部屋の明かりが遠巻きに、いい感じ。
雨の日もおそらく、同じ現象が起こっているのに目にはいってこない。
そんな時は、誰かとこの景色を共有して、LEDライトの発光の原理とかについてぼーっと話したい。
私が見ている景色は、私しか見ていないので、誰かに見せてしまいたい。
そして、その人が見ている景色について、私の見ていないその景色について、聞かせておくれよ。
11月23日に、FishmansのライブDVDが再販されて、「記憶の増大」「若いながらも歴史あり」「男達の別れ」の3本、買ったそれを見ながら文章を書いていたら、土曜日の夜が流れてきて、私が初めて聞いたFishmansの音源なので、やっぱ好きだなぁと思いました。
そしてちょうど土曜日の夜でした。
『溺れるナイフ』に溺れ狂う。。
映画『溺れるナイフ』を観た。
自宅から20分ほど車を走らせ、小田舎のレイトショーで、後ろから2列目の真ん中をインターネットで予約していた。
発券時には、誰も同じ列にいなかったのに、席に着くと中心を目掛けて反対方向から迫り来る人影が、私の心をちくちくしてきた。わかる、ここいいよね。
完全に初見での鑑賞でしたが、あたしの”今”欲しいモノが、なんとも言い表せにくいようなあの感覚が、映像となって純度高く流れ込んでくる。
あたしは今どこにいるのでしょうか。永遠に終わらないでください。という思い。
ストーリーの中の人々を見ている感覚ではなくて、自分の中を見ている感覚、だけどあたしは参加者じゃないという事実も悔しくも知っている。
これを自分のものにするには、どうすればいいのかと、夏芽を追いかける自分がいる。
コウちゃんを追いかける夏芽がいて、それを追いかける自分がいる。
愛は、かたち(文字や言葉)にした時点で違うものになるはずなのに、こんなにもずぶずぶと心に入ってくる現象を、目の前で起こっていることで感じることになるなんて。
永遠に終わらなければいいのに。いや、永遠に終わらないなこれは。
そんな作品に出会える人生だったんだと、少し自分の人生を生きている気がしました。
常にポケットに入れといて、いつでも溺れられたら最高に気持ちいいなと思っています。
1日目
記事を書く、ツイートする、近況を投稿する、歩く、走る、考える、読む、話す、考える、そして眠る。夢を見る。
どこかに”居たいな”と思う気持ちがいつもそこにある。
その思いに一瞬でも寄り添ってくれるあなたに出会えたならば、空中を彷徨っていた思考が少し地上に降りてこれる気がするのです。